鎮座地 福岡県宗像市鐘崎224
西鉄赤間営業所より鐘崎行きにて約50分、鐘崎車庫下車、徒歩15分。神社に向かって歩いていると、玄関に注連縄を飾っている民家が多く、地元の人に尋ねると漁業に携わる家は一年中注連縄を飾ると云うことであった。
鐘崎港の先、鐘ノ岬の佐屋形山の山頂に鎮座。
夜舟こく せとのしほひと よそにみて 月にこそゆる さやかたの山 中務
主祭神 竹内宿禰(たけしうちのすくね)
志賀大神・住吉大神・宗像大神 ・壹岐眞根子ほか
漁業の町らしく志賀大神・住吉大神・宗像大神の航海安全の神も祀っている。
御祭神、竹内宿禰と壹岐眞根子との関係
綾杉るな著『神功皇后伝承を歩く 上』(不知火書房刊)に次のように記載されている。
当社の祭神の竹内宿禰と壹岐眞根子との間には深い縁がある。『日本書紀』によると、竹内宿禰の異母弟・ウマシウチ宿禰が応神天皇に讒言をした。それを信じた応神天皇は筑紫に行っていた竹内宿禰の殺害命令を下す。その時、見た目がそっくりな壹岐眞根子が竹内宿禰の潔白を示すために代わりに自害をしたという。河村哲夫によると、壱岐島では壹岐眞根子の父は中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)で母は竹内宿禰の妹、忍媛命(おしひめ)と言われるが、その一方で眞根子は竹内宿禰の子だという話もあるということだ。
御由緒
『宗像大菩薩縁起』によると神功皇后の三韓征伐の時、宗像大神の竹竿に竹内宿禰が織った紅白2本の旗をつけ、これを上げ下げして敵を翻弄した。その旗を織ったのがこの場所であることから織旗と名付けられたと伝えられている。
境内説明板には次のように記されている。
平安初期、朝廷の年中儀や制度などの事を書いた”延喜式”の中に、日本中の神社が記してあります。織幡宮は、筑前十九社の第二番目に記され、宗像郡内でも、宗像大社に次ぐ神社として記録されています。その昔、文字を持たない時代から、古代の人々は、山の神、海の神、岬にも神霊を感じて航海安全を「ちはやぶる神の岬」として祈った時代もあったと思われますし、織幡宮は武人、竹内宿禰を鎮護国家の備えとして、交通要衝 鐘崎に祀ったといわれています。古文書に元禄8年(1695)社殿造立。元禄16年(1703)拝殿成就と記され古い歴史がしのばれます。
平成8年4月1日
『筑前名所圖會』によると
鐘か岬の山にあり。祭る所の神、武内大臣なり、相殿左は住吉大神、右は志賀大神也、延喜式神名帳、筑前國宗像郡織幡神社一座名神とあり、是筑前十九社の一也、文徳實録、三代實録等の國史に、此神に位階を朝廷より賜り給ひし事あり、鎮座ましまし山を佐屋形山といふ、俗に小屋形山と呼べり。
拝殿前の歴史を重ねた狛犬
沈鐘伝説(参道横にある)

巨石 昔の人は、金崎は鐘崎で、ここには海の向うの國から来た釣鐘が沈んでいると語りつぎ信じてきた。そして宗像興氏や黒田長政などその権力にまかせてこの釣鐘を引揚げようとしたが失敗に終わった。ところが大正8年に山本菊次郎なる人が万金を投じてこれを引揚げることに成功した。しかし姿を現したには釣鐘でなくして、このような巨石であった。人びとはがっかりしたが、いまでも本当の釣鐘は海底に沈んでいるとの思いをすてかねている。このような話は、沈鐘伝説といって諸国に例があるが、ここのは、そのもっとも有名なものである。沈鐘と巨石、夢と現実、まことに面白い郷土鐘崎の物語である。
沓塚(拝殿右、一段下がったところに有)
『筑前名所圖會』
竹内宿禰此山佳境なるもって、吾死なは神霊は必此地にやすんすへしとのたもふ、異国来襲の災いを守りふせかんためなりなりそ、是により後人此地に祠を立つといふ。
銀杏の木
竹内宿禰が下関市の忌宮神社の御祭神仲哀天皇を偲び植えた銀杏の木の子孫。
竹内宿禰は第12代景行天皇、成務天皇(13代)仲哀天皇(14代)神功皇后、応神天皇(15代)仁徳天皇(16代)に仕え、仁徳天皇の時代に330歳で亡くなったと云われている。
境内神社(十社の内)