鎮座地 福岡市中央区天神1-15-4
西鉄バス「市役所北口」下車スグ。
ビルが立ち並び、自動車の行き交うビジネス街の一角に鎮座してます。入口は狭いが奥行きが広く、境内は静かで落ち着く神社です。
参拝したのは平日の昼間でしたが、一人で、二人ずれ、あるいは数名ずれなど、参拝者が絶えませんでした。
筑前國続風土記巻之三 「水鏡天神」の記述。
福岡の東橋口にあり。九月廿五日祭あり。社家に云傳るは、菅君大宰府に左遷せられたまふ時、御船袖の湊に著けるに、船よりあがらせ給ひ、四十川に臨て水鏡を見給ひ、罪なくて咎を蒙り給ひける心中の欝念に、御容のおとろへ給ふ事をなげきたまひぬ。
後人此所に御社をたてて、水鏡の天神と號す。又容見の天神とも名づけ侍る。四十川のほとりにあれば、四十川の天神とも申す。四十川と名づけしは、其本縁しれず。
御祭神 菅原道真
御由緒
延喜元年(901)菅原道真が大宰府権師に左遷されて博多に上陸の時、四十川(しじゅかわ、現在の中央区今泉)の清流を水鏡として姿をうつし、水面に映った姿を見て、あまりのやつれように嘆き悲しんで、まるで死人のようだと嘆いたといわれています。
これによりこの川は「死時有河」とよばれるようになった。と『大宰府系天神縁起の世界』には説明しています。前述の筑前國続風土記では「四十川と名づけしは其本縁しれず」と書いてあるが、この「死時有河」がいつからか「四十川」と呼ぶようになったのではないかとわたしは推測しました。
その時道真が杖で、川の水をかき乱したため、そののち川の水はいつも濁り、澄むことはなかったと伝えられています。
後世その地に社殿を建てて水鏡天神、又容見(すがたみ)天神といった。
慶長17年(1612)初代藩主黒田長政が福岡城の鬼門除けとして福岡市本庄町(今泉)から現在の天神に移築遷座し、寛永18年(1641)二代藩主黒田忠之が社殿を再建。
福岡市の中心「天神」とは、菅原道真のことであり、地名はここから来ている。
御催事
・1月7日 鷽(うそ)替
・7月24・25日 夏祭(がんぞい)
・10月24・25日 秋祭
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