鎮座地 糟屋郡粕屋町駕与丁3-9-1
JR篠栗線「長者原」下車、徒歩10分。
周囲4kmの広大な池、駕与丁(かよいちょう)池の一角に鎮座しています。
駕輿丁池について「筑前國続風土記」巻之十八に次の記述があります。
「上中原村にあり。大塘なり。塘の長、南北百三十六間、東西三百間許、深二間半許あり。宗像郡勝浦の塘、那珂群白水の塘などの類也。又此北にも、是につぎて大塘あり。
又北の側に八幡宮あり。是を駕輿丁八幡と号す。故に池の名をも、駕輿丁と号す。上中村村の産霊なり。此社を駕輿丁と号する事、其故詳ならず。
或日、神功皇后香椎宮より宇美に行給ふ時、此村民御輿をかきし故、此地に駕輿丁の名あり。其時暫御休憩の所に、後世御社を立たる故に、駕輿丁八幡といふ。
神功八幡御相殿なり。」
御祭神
・神功皇后
・応神天皇
・玉依姫命(神武天皇の母)
・住吉大神(旅の守り神)
御由緒
神功皇后が応神天皇を出産されるため香椎の宮を出発され宇美八幡宮に行幸されたときこの地で休息されたので、地元の人々が祭神したのが始まりとされている。
旧社殿は弘化4年(1847)に木造つくりで再建され、昭和47年にコンクリート造りで改築された。
駕輿丁という名称について(境内説明書きより)
日本に律令国家が設けられた大化2年(646)四府と呼ばれる四つの官庁の一つに、天皇が外出されるとき乗り物をかつぐ人々の組織、駕輿丁座がありました。
駕輿丁の「駕」は乗り物の意味、「輿」は神輿(神のみたま)のこと、「丁」とは身分の高い人を運ぶ人々(集団)をさします。
駕輿丁座の変遷について(境内説明書きより)
この座は、律令国家が力を失うとともに衰えるが平安時代、藤原氏が政治を行なうようになると各地の荘園から駕輿丁を集めたといわれている。
豊臣秀吉のとき、解体され、全国から姿を消した。
現在駕輿丁という名称が残っているのは、日本でこの地域のみ。