鎮座地 福岡市中央区西公園13-1
「さくらの名所100選」の一つで春は桜見で賑わう西公園の中腹に鎮座しています。
御祭神 黒田孝高(官兵衛のちの如水)
黒田長政(孝高の息子・初代福岡藩主)
孝高の法名(龍光院殿)の「光」と長政の法名(興雲院殿)の「雲」の一字づつ採り「光雲神社」と名づけられた。
御神徳 不明ですが、如水の祖父・重隆は、目薬の製造販売をしていたので
眼の病に御利益があると云われています。
御由緒 六代藩主黒田嗣高(1703-1775)が福岡城内に創建。明治4年
廃藩置県により、黒田家が東京に移転されることになり、有志等が
十一代藩主長溥に懇願し、明治4年8月旧社地の小烏吉祥院跡
(現在の警固神社の近く)に神社を移した。
明治44年4月西公園に新社殿落成移転。昭和20年6月19日の
福岡大空襲で消失したが、昭和41年10月30日に現在社殿に鎮座。

狛犬二体。不思議なお顔と思いながら、正面からシャッターを切ったが、後で聞くと首が後ろを向いているそうで、横から撮影するとはっきりするとのことであった。これは先代の形を踏襲したもので、城内にあったとき、場外の領民を守るために首を後にむけていた。

長政愛用の水牛の兜像
慶長5年(1600)関が原の戦いだ徳川方の先陣を承った黒田勢は合渡川(旧岐阜市の東)に進出した。連日の雨で増水していたが、家臣後藤又兵衛の進言で、夜中、強行渡河が決まった。長政の乗馬が先頭で足を滑らせ、危うく河中に転落の刹那、川辺の柳の枝に水牛の兜の緒がかかり難を避けることが出来た。この像は、長政の幸運にあやかり、勢作・奉献された。(光雲神社記)

母里但馬守太兵衛友信像
黒田25騎の一人で知勇兼備の武将で、主君長政の命を受けて福島正則に使いした時、禁酒の太兵衛が、なみなみと注がれた大杯の酒を自若として飲み干し、太閤秀吉より拝領の福島家家宝「名槍日本号」を持ち帰った。
像の下部には母里太兵衛をモデルにした民謡「黒田節」の歌詞が刻まれている。(神社内説明板)
官兵衛の最後
関が原の合戦の四年目の慶長9年(1604)2月20日、山城伏見城下の
黒田家伏見屋敷で、59歳に生涯を閉じた。
死去地については、地元福岡という説もあります。
辞世の句
「おもひをく言の葉なくてついに行く道はまよわじなるにまかせて」
長政の最後
領内の宗福寺、聖福寺、箱崎宮、宗像大社、大宰府天満宮に保護の手を
差し伸べるとともに、折尾村等に遠賀川から水路を引く治水事業もしている。
元和9年(1623)参勤交代の途中で病に倒れ、55歳の生涯をとじた。