水天宮

鎮座地   福岡県久留米市瀬下町265-1

JR鹿児島本線「久留米」駅下車、 徒歩10分。

御祭神   天御中主神(あめのみなかぬしかみ)  安徳天皇

 高倉平中宮(建礼門院、平徳子)  二位の尼(平時子)

  DSC00095天御中主神は高天原に一番最初に現れた神で、「古事記」には造化三神(ぞうかのさんしん)の一柱で、別天神(ことあまつかみ)五神の第一と書かれている。天は宇宙、御中は真ん中、主は支配するとする意味で、宇宙の根源神の性格を持つ。

建礼門院は安徳天皇の生母、二位尼は平清盛の妻で安徳天皇の外祖母。(戸部民夫著、「日本の神様」がよくわかる本)

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 御由緒

寛永4年(1185)壇ノ浦の戦いの後、高倉平中宮(建礼門院 平徳子)に仕えていた官女、按察使局(あぜちのつぼね)伊勢は千歳川(現筑後川)の辺の荒涼たる原野であった鷺の原(さぎのはら)に遁れて来て建久初年(1190)「水天宮」を創建した。

その後兵禍をさけて諸所に還座したが、慶安3年(1650)久留米藩二代藩主有馬忠頼が社地と社殿を寄進し現在地に還し奉った。

第九代藩主有馬頼徳は文政元年(1818)に江戸三田の藩邸に分霊を勧請し、その後明治4年現在の中央区日本橋に還座され、これが現在の東京水天宮である。

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一口メモ

当神社は水天宮の総本宮である。もともとは筑後川の水神を祀るお宮で、そこに壇ノ浦の戦いで入水した幼帝安徳天皇と生母の建礼門院、外祖母の二位の尼を祀った。参拝したのは、陽ざしの暖かい12月の平日であったため、参拝客が少なく、清掃のいきとどいた境内に玉砂利を踏みしめる時のジャッジャという音に心が鎮まる気持ちがした。また時々吹き抜ける風でイチョウのサワサワと散る音も清らかに聞こえた。

御神紋は椿で、周囲には色んな種類の椿が植えられ、満開の時期は目を楽しませてくれよう。

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拝殿

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拝殿扁額

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鳥居

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東郷平八郎の書による鳥居扁額

以前は「尼御前(あまごぜ)大明神」「尼御前社」と称されていたが、江戸三田の藩邸に分霊した頃より「水天宮」と呼ばれるようになったと云われる。

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太鼓橋

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御神門

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本殿

狛犬

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境内の様子

真木神社

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真木神社

第22代宮司で明治維新の中心的指導者であった真木和泉守保臣を祀る。文化10年(1813)生まれ。少年の時に愛読した絵本楠公記は尊王愛国の精神を培い、長じては水戸学を中心に学識を深め、身を持って実践した。嘉永5年(1852)藩政改革を企てたが失敗し、現筑後市水田に蟄居させられたが文久2年(1862)に脱藩、元治元年(1864)長洲藩と共に倒幕の「禁門の変(蛤御門の変)」を起こしたが敗れ、同士十六人と天王山に登り辞世の句を残して自刃した。

脱藩の時、書き残した句。『やがて世の 春に匂はん梅の花 かた山里の 一重なりとも』

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真木和泉像   明治100年を記念して建てられた

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辞世の句碑 『大山(おおやま)の峰の岩根に埋にけり  わが年月の大和魂』

梔窩(くちなしのや)

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山梔窩

真木和泉守が久留米藩より水田村(現筑後市水田)の弟大鳥居信臣のもとに謹慎を命ぜられ、そこの庭の一隅に建て、付近の師弟の教育を行い、また尊皇倒幕の策源の場所ともなった。この建物は当時の物を模して建てた物で、実際の建物は水田に現存している。

境内神社

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千代松神社  御祭神、水天宮の創始者『按察使局伊勢命(あぜちのつぼねいせのみこと)』

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秋葉神社。  御祭神『阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)』。大国主神の御子。農耕・文芸の神。

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水神社。ご祭神、彌都波能売神(みずはのねのかみ)、水徳の神。 鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、安産の神

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肥前狛犬   水神社の前に鎮座し、犬でもなく、獅子でもない、大変かわいらしく小さな狛犬です。自分の痛い箇所を撫でると痛みが取れるということで「撫で狛犬」と呼ばれている。

工藤謙堂碑DSC00049工藤謙堂(1801-1862)は。久留米の地で初めて蘭方医学を開いた名医である。豊後の国杵築の医家に生まれ、蘭医シーボルト等に医学を学び、乞われて久留米で医業を開いた。

謙堂は信ずることに篤く、漢方医の圧迫に屈せず、また藩医への推薦も固辞した。

特に真木和泉守と親交を結び、共に国事を論じ、海外の情勢や西洋学術の進歩について和泉守に新しい知識を授けた。これが和泉守の藩医学刷新、久留米医学館開設の上申となった。(境内解説より)

戦艦千歳慰霊碑

  • DSC00040軍艦千歳は筑後川(別名千歳川)の名をとって命名されたもので、昭和13年就役以来幾多の海戦に出撃して戦果を上げたが、昭和19年10月25日午前9時30分フィリピン沖2百哩の太平洋においてその雄姿を没した。艦内神社に水天宮が奉斉してあった。この碑は昭和53年に遺族の方々により建立された。
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    戦艦千歳の雄姿(銅板)

    筑後川とカッパ伝説

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    境内より筑後川を望む

    九州一の長さを誇る筑後川は、源を阿蘇外輪山の一角に発し、熊本、大分、福岡、佐賀の4県を蛇行して有明海に注ぐ。「筑紫次郎」の異名を持ち「坂東太郎」(利根川)、「四国三郎」(吉野川)と共に三大河川として知られている。

また千歳川、一夜川とも呼ばれているが、筑後川と呼ばれるようになったのは、寛永年間(1624~1644)と云われる。

この川は、全国河童の総師「九千坊」のふるさとであり、幾多の河童伝説がある。

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河川敷から見た神社本殿

【伝説の一つ】壇ノ浦で敗れた平家の残党は、筑後川にひそんでカッパに変じた。とくに筑後川支流の巨勢川の蛇淵には、カッパの総大将、巨勢入道がすんでいる。彼は平清盛の化身で、ときどき下流の水天宮に祀ってある妻の二位尼と孫の安徳天皇に会いにいく。このとき、筑後川が大氾濫をおこすのだという。

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筑後川。対岸は河川敷ゴルフ場。小生もゴルフ覚えたての頃、よく通ったものです。

 参考図書   戸部民夫著  「日本の神様」がよくわかる本(PHP文庫)

          アクロス福岡文化誌編集委員会  福岡県の神社(海鳥社)

          西日本新聞社 全国歴史散歩 福岡県編(河出書房新社)

 

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